2023年1月

“光寿無量”

私が笑うと 鏡も笑う

怒った顔をすれば 鏡も怒る

この世は すべて 私の心の鏡

 2023年がスタートしました。新型コロナウィルス(COVED-19)感染症が日本でも発症してから、今月で3年となりました。中国の武漢市ではじめてこのウィルスが発見されたとき、私たち自身もどういう病気であるのか、未知な部分が多く不安を抱えて日々を過ごし、瞬く間に日本中に新型コロナウイルスがまん延しました。そして、それまで私たちがあたり前と思っていた日常生活は一変し、マスクをつけて生活することが当たり前のような生活になりました。改めてこの3年間を振り返ってみると、このウイルスにつれてどんな病原体でどのように対処したらいいか等ワクチン開発の研究もすすんできて、段々とこのコロナ禍での過ごし方なども含めて私たちの日常生活も落ち着いてきているように感じます。

 しかし、一方でこの一連の出来事を振り返ってみると、私たち人間は“未知”ということに対していかに不安を抱き恐怖を覚えるのか、さらに“知る”ということの与える安心感を実感し、知っていくということの大切さを思わせていただきました。

 さて、今月のことばは“鏡”をキーワードとしてよまれたことばです。私たちは日々の生活の中で鏡をみますが、鏡はその前にたった姿をそのまま写し出します。「鏡を見る」ということを少し考えてみると、同じ見るでも「桜を見る」ということと全く意味が異なります。「桜を見る」は、桜の咲いた花や景色をみるということですが、「鏡を見る」という場合は、「鏡の形を見る」のではなく、「鏡に映った自分の姿を見る」ということです。つまり、鏡はその前に写るそのものをそのまま写し出すはたらきをもち、私たちは鏡に映る外面の姿を整えて他の人によく見せようと使っています。しかし、どんな高価な鏡であっても、私たちの容姿を写し出すことは出来ても、心の中を写し出すことはできません。今月のことばにある「この世はすべて私の心の鏡」ということを考えてみると、私の心が楽しいなと思うときは周りもうきうきと楽しそうに見えるし、自分の心が沈んでいるときは周りも暗く見えてしまう、そういう心の有り様を譬えているように思います。しかし、このことは自分の都合という鏡を通して見ている姿のように思います。

 中国の僧である善導大師は、「仏教の教えは鏡のようなものである」(意訳:『観経疏』序分義)と記されています。仏教の教えとは、お釈迦様が説かれた真実の教えということですが、その教えを通してありのままの自分の姿を見るということです。親鸞聖人は、その教えの鏡を通して見られる自分の心の内面を次のように詠まれています。「外見はそれぞれ賢く善い行いに励んでいるかのように振る舞っているが、 内心は貪りや怒り、 いつわりばかりであり、 その身には人を欺こうとする思いが満ちている。」(意訳:『正像末和讃』悲嘆述懐)。親鸞聖人は、自分の都合という眼でしか自分を見ていない自身の心を、仏法の教えの鏡に写し出されたままの姿として詠まれ、その心をまっすぐに見つめて生きていかれました。私たちは自分の心を見つめてみるというとき、どうしても自分の都合のいい眼でしか見ることがなく他の人によく見られようと体裁を整えたりすることばかりになっていることはないでしょうか。仏教の教えが鏡となるということは、自分の都合で見るのではなく仏教の教えを鏡として写し出されたあるがままの本当の姿を見るということです。そして、その自分の都合でしか見ることが出来ない自分の心を自覚反省して、そういう現実を見つめていくことが大切であるといわれます。

 私たちも、仏教の教えを鏡として、日頃の自分自身の心を見つめる眼を大切にしながら、今年一年も過ごしていきましょう。

(文責 宗教科)