2021年2月

仏教の平等性とは
自分の生き方を絶対化しないこと
自分と異なった生き方に対する
寛容ということにある

    日本で新型コロナウィルス感染者が最初に発表されてから1年が経ちました。現在も日本各地で2回目となる緊急事態宣言が出され、一日も早くこの状況が改善されるようにお互いに感染予防に努めながら過ごしていきましょう。

    今月のことばは、「平等」ということについて述べられています。「平等」を英語では、“equality”や“impartiality”などと訳されますが、仏教でいう「平等」は、単に「同等」という意味ではありません。  

   お釈迦様は、縁起の道理を悟られました。その立場から、生きとし生けるものを考えてみると、様々な縁によってそれぞれが異なった姿、考え方をして生きているといえます。その上で、もし私たちがその違いを認めず、自分の考え方や価値観を相手に押しつけるならば、そこには対立や争いが起こってきます。そして親鸞聖人は、このように自己中心的なものの見方をして、真実を知らずに自ら苦しみをつくりだしている姿を、「凡夫」と述べられています。さらに、その違いをもった「いのち」を等しく仏にしようとするはたらきを阿弥陀仏の「本願」といわれ、阿弥陀仏の本願の眼差しにおいて「いのち」は平等であるといわれます。そして、この阿弥陀仏の願いを聞き私たちがその願いの「眼」をいただく時、自分の生き方を絶対化せず、それぞれの良さや生き方を尊重し、認め合える寛容の世界が生まれてくるでしょう。

    また、『摂大乗論』という仏教の教えが説かれた書物に「一水四見」の譬えという話があります。この話は、水という同じものを餓鬼・畜生・人間・天人の四者が見たとき四者四様の見方があり、私たち人間は、河があれば河(=水)だと認識し、魚にとっては住みかであり、餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ、天人にとってはその上を歩くことが出来る瑠璃の床と見えると説かれています。さらに同じような話として、「手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る」ということばがあります。同じ手を打つことに鳥は驚いて飛び立っていく、それに対して、鯉は餌をもらえると思って寄ってくるというものです。この2つの話は、1つのものでも見るものや方向、立場によって見え方が違っているということを説いています。この教えから、人の「生き方」についてもそれぞれに違いがあると考えることができるし、さらに様々な生きものの立場に立ってものを考えてみることの大切さということにも深めることができるでしょう。

    今月のことばを改めて考えてみると、私たちはどうしても自分中心の考え方や生き方ばかりをしてしまいます。しかし、少しでも仏様のすべての「いのち」を等しく救う(平等)という願いの眼差しをいただく生き方に努めていくとき、自分と違った生き方や人の良さや考え方を尊重する寛容さ、さらに人間だけではなく、生きものすべての「いのち」を慈しむ生き方ができてくるのではないでしょうか。

(文責:宗教科)