2021年3月

善人ばかりの家庭は
争いが絶えない

高校3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。 

春3月になり、日本では「年度末」、卒業式の月であり、2020年度が

終わる節目の月です。節目にあたり、1年間を振り返って反省し、次の

目標を決めて、決意を新たにしましょう。

さて、皆さんは今月の言葉を読んでどう感じたでしょうか。最初は「なぜ善人ばかり」なのに「争いが絶えない」のだろうか?「悪人ばかり」だとしっくりくるのにと思いませんでしたか?

 例え話をしましょう。隣り合ってるA家とB家の話です。家族構成は全く同じです。夕方、A家でお父さんが帰ってきました。お客さんでもあったのでしょうか、玄関に湯飲み茶碗が残っていて、お父さんはそれにつまずいて、割ってしまいました。するとお母さんがやってきて、「よく見て上がらないからよ!」とお父さんを責め、小学生の男の子が「まったくあわてものなんだから」と言い、お祖母ちゃんまで出てきて、「あの茶碗は高かったのに!」と言いました。お父さん

は、その皆の言葉に「片付けてないからだろー!」と怒っています。

 その頃、B家でもお父さんが帰ってきました。同じように玄関にあったお茶碗につまずいて割ってしまいました。お母さんが出てきて、「ごめんなさい。片付けてなくて」と言い、男の子は「お父さん、大丈夫?ケガしてない?」と言い、お祖母ちゃんは「私も気付いたときに片付けとけば良かった。ごめんなさい。」と言いました。

お父さんは「いやいや、僕がよく見て上がれば良かった、僕が悪かった。」と謝りました。その後、A家の晩ご飯は皆しかめっ面で、会話もなく、不味いものになりました。B家の晩ご飯は、皆ニコニコして、会話もはずみ、美味しくいただいたのでした。

 「自分が絶対に正しい、自分は過ちをおかさない。」と自分を善として他者を見ると、他者の悪いところばかりに眼がいき、そのことを責めたてて対立や争いが起こります。一方、「自分もいつも正しいとは限らない、過ちをおかすことだってある。」と思って周りを見てみると、他者の過ちを自分のこととして許したり、やさしく諭したりできるのではないでしょうか。

 親鸞聖人は晩年関東の門弟達に送られたお手紙の中で、親鸞聖人の師である法然聖人から「浄土宗の人は愚者になりて往生す」とお聞かせ頂いたと書かれています。このお心は、「自分は賢く偉い人間ではなく、どうしても自己中心にものを考えたり、他者を恨んだり、ねたんだりする気持ちが抜けない、煩悩を抱えた愚かな人間である」という自覚が大切であるということです。そして、その愚かさをかかえた私であるという自覚から、他者の痛みや喜びへの共感や共生の心が生まれてくるのではないかということです。自分の賢さを誇るよりも自分の愚かさを自覚する生き方は大切なことだと示されました。    

(文責 宗教科)