2022年6月

私の物差しで
問うのではなく
私の物差しが
問われる

梅雨の時節になりました。

   皆さんは雨の季節が好きですか?嫌いですか?大方の人は嫌いでしょうか。その理由は、「傘をささなければならないので面倒くさい」とか「電車やバスが混んでいる」とかだと思います。では逆に雨の季節を好ましく思っている人の理由を考えてみましょう。

   例えば農家の方だったら、雨が降らないと作物は育ちませんから、雨をありがたいものだと捉えるでしょう。また、こんな童歌を聴いたことがありませんか?

 あめあめふれふれ、母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな。ぴちぴちちゃぷちゃぷ

 らんらんらん

「うれしい」のですね。

 このように、私の物差しは絶対ではありません。物事をはかる物差しは、「好き嫌い」「美味しい美味しくない」「長い短い」など色々とありますが、その人のもっている物差しではかっていますので、どれが正しくてどれが誤りであるかは定かではありません。

 今月の言葉は、「私の物差し」だけが絶対であるとして、他の物差しを排除したり、否定したりしてはいけない。お互いが、自己中心的な私の物差し(ものの見方)だけを主張すれば、そこにはいさかいや争いが生まれる。だから、ときどきは私の物差しを点検しなければならないし、他の人の物差しも一旦受け入れて、私の物差しと比べてみよう。と教えてくれています。

さらに、

 損か得か 人間のものさし  うそかまことか 仏様のものさし

という言葉がありますが、私の物差しのはかり方は、自分にとって「損か得か」ではかっていることが多いのではないか。それはやはり自己中心的な物差しであり、正しいことでも自分にとって損であれば行わないし、間違ったことでも自分にとって得になれば行うということになってしまうのです。逆に仏様の物差しでは、「うそ」であれば自分にとって得であっても行わないし、「まこと」であれば損をしてもかまわないということになります。

    例えば、電車やバスでお年寄りに席を譲るという行為は、自分にとって得にはなりません。だから、すすんで行うことは難しいことですが、その行いでそのお年寄りや周りが幸せになるなら、それはとても尊い行いだと思います。仏教ではそのような行いを「利他行」と言います。この例では、自分のことだけでなく、他者の痛みや苦しみに寄りそうことが「まこと」の物差しではないかと仏教が教えてくれています。

    私たちは日頃、色々な物事を私の物差しではかって生きています。ときどきは私の物差しを点検し、そしてできれば「うそかまことか」の物差しをつかって物事を見てみたいものです。そうすれば、他を受け入れることができるようになるし、人と人との関係でいさかいや争いが少なくなり、自分も周りも幸せな気持ちになれるのではないでしょうか。

文責 宗教科