世界の〝複数性〟に向き 合い、
そして、〝考え〟続けること…
ハンナ・アーレント
アンナ・ハーレント(1906~1975年)が訴え続けたこと。
複数性〟とは、〝多様性〟のこと。それぞれ独自の個性をもつ人びとが、 その個性という違いを認め合いながら、平等に共存するということ。
「今月のことば」は、「ことば」そのものではありません。政治哲学者 のハンナ・アーレントが生涯をかけて訴え続けたことです。このことをめぐって、少し難しい内容かもしれませんが、一緒に考えてみましょう。
おそらく生徒のみなさんは、アーレントの名前をはじめて聞くと思います。そこで、最初にアーレントの簡単な紹介です。アーレントはユダヤ人の両親のもと、ドイツに生まれました。アーレントが生きた時代、ドイツではやがてヒトラーが率いるナチスが台頭し、全体主義と呼ばれる独裁国家が樹立されます。ドイツ系ユダヤ人であるアーレントも迫害を受け、逮捕や収容所生活を経験します。そして最終的にはアメリカに亡命し、以後、大学で教鞭をとり、主に政治哲学の分野で思索を重ねました。
独裁・暴力・戦争・侵略・虐殺など、アーレントが身をもって経験した全体主義の衝撃。アーレントが生涯の課題としたのは、全体主義と対決し、「悪の陳腐さ」を問い続けることでした。なぜ全体主義が生まれたのか、なぜ全体主義を誰も止められなかったのか、ユダヤ人の大量虐殺のような〝悪〟はなぜ起きたのか……。アーレントは次のように考えます。人間の〝複数性〟が否定され、〝考える〟ことをやめた「大衆」の増加が、全体主義を生みだす基盤になったと。
また、アーレントは、絶滅収容所への移送の最高責任者であったアドルフ・アイヒマン(1906~1962)を極悪非道な悪の権化としてではなく、「凡庸な悪」「陳腐な悪」と分析しました。実際、アイヒマンは裁判で、自身が行った虐殺行為について「私はただ命令に従っただけ」との弁解を繰り返していました。思考や判断を停止した普通の人間が、大量虐殺を起こしていたのです。
生徒のみなさんは、こうした事実をどう受け止めますか?
ちなみに「凡庸な悪」「陳腐な悪」というアーレントの鋭利な分析をはじめて知った時、私は親鸞の「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(条件さえ重なれば、どのような振る舞いでもしてしまうのが私たち人間です」(『歎異抄』)という言葉を思い浮かべました。他人事ではなく、私も含め誰でもアイヒマンになりうると……。
さて、みなさんのクラスではどうでしょうか。自分と性格が合わない人や、考えや意見が違う人と学校生活を送ることは、確かにしんどいことではあります。時には対立もするでしょう。でも、「嫌いなところもあるけど、いいとこもあるやん」と認め合ってみてはどうでしょうか。クラス内という小さな世界でこそ、〝複数性〟に耐えていくことが大切です。そして、教員や周囲の大人の話を鵜吞みにせず、自分自身の頭で〝考える〟ことを大切にしてください。私も、ただ命令に従うのではなく、〝考え〟続けられる人間でありたいと思います。
(文責 宗教科)