2022年9月

人間は 何十億といるのに
私とおなじ人間がどこにもいないのは
フシギなことだ

この私のなかに
無限の世界があるのは
さらに フシギなことだ

榎本 栄一

  今月は秋分の時節、お彼岸を迎えます。“彼岸”とは、古代インドの言葉、サンスクリット語の「波羅蜜多」(pāramitā:パーラミタ)を訳した「完成された仏の境地・到彼岸」と訳され、“迷いの世界”であるこの世(此岸)から“悟りの世界”である彼岸(浄土)へ渡るという意味です。また“彼岸会”は、聖典に「春分秋分の時節に、み仏の教えを聞き、彼岸の世界(真実の世界)に照らされて、日頃の生活を振り返りましょう」(『聖典』P232)とあります。

   今月のことばは、仏教詩人の榎本栄一(1903~1998年)さんのことばです。榎本さんは、若い頃から宗教や文学に関心をもたれて浄土真宗に帰依され、60歳を過ぎてから念仏のうたという仏教詩を数多く残されました。榎本さんの詩は、お釈迦様や親鸞聖人のみ教えを自分の経験に重ねて深く味わわれたものが多く、今月のことばにある“フシギ”と題された詩もわが身を深く見つめられた中に感じられた世界を詠われています。

   “不思議”という言葉を聞くと、人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを思い浮かべます。また、宗教においても“不思議”という言葉は、人間の理解や認識を越えたはたらきと理解して、現実の問題を解決しようとすることと考えることもあり、仏教語にも“不思議”という言葉が出てきます。親鸞聖人は、この“不思議”という言葉について、自分自身を深く見つめられる中で阿弥陀仏がすべてのものを救うはたらきを“不思議”といい表されました。仏教は、基本的に自覚の宗教で、仏の智慧に照らされて自分自身を見つめ、自分の“いのち”に目覚める宗教といわれます。お釈迦様は、老病死の現実に苦悩され、それを無常ととらえ、この世界を“縁起”であると悟られました。“縁起”とは、すべてのものが因(直接原因)と縁(条件)によって成り立っているということで、あらゆるものごとが関係性の中で成立していることを説かれたものです。

   この教えを通して私自身の“いのち”を見つめてみると、今ここにあるわたしの“いのち”は、何一つとして選ぶことはできない“いのち”であることに気づかされます。それは、時代や地域、性別や両親・家庭環境も、また能力や才能も選ぶこともできず、たまたまこのように生まれてきて“わたし”として生きているということです。また一方で、分子生物学の研究によると、「地球に生物体が誕生して40億年という長い歴史の中で途方もなく進化し、多様性をもつ生命の中に、1つとして“わたし”と同じ遺伝子の組み合わせを持つものはいない」と聞いたことがあります。40億年の生命の歴史の中で、地球上のどの生命と比べても“わたし”は唯一無二であることがゲノムが語る生命の尊さであり、どの個体もみな違ってそれぞれがそのままに尊いといわれます。このように考えてみると“わたし”の意志に関係なく “わたし”が“わたし”として今ここに生かされて生きている現実は、“フシギ”としかいいようがないのではないでしょうか。

    さらに、仏教ではいのちあるものを“衆生・有情”(sattva)とよび、生きとし生けるものすべての“いのち”を等しく尊いものとして考えていきます。榎本さんは、「私にながれる命が 地に這う虫にもながれ 風にそよぐ 草にもながれ」(「一味のながれ」)と深い“いのち”のつながりを詠まれています。わたしたちは、ともすると人間中心主義の狭い価値観の中で人間だけが尊い価値ある存在であると勘違いをし、周りにある小さな生命や地球そのものの生命の尊厳を無視して生活していないでしょうか。すべての“いのち”がそのままに輝く世界であると説かれてある彼岸(浄土)の世界の教えを通して、今一度わたしたちの“フシギ”のいのちの意味を味わってみましょう。

(文責 宗教科)