本当に
神仏を拝んでいるのか
欲望を
拝んでいないか
今年も残り1ヶ月となりました。振り返ってみると今年も新型コロナウィルス感染症に不自由な生活を強いられた年でした。ただその中で皆さんはできることに精一杯取り組んだと思います。
さて、今月の言葉はあるお寺の掲示板に書かれていたものです。「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、人は自分や自分の身近な人のために神仏に祈り、願いをかなえてもらうよう頼みます。病気になればその治癒のために、お金に困るとお金が手に入るように、新しい車を購入すれば、事故にあわないように祈願します。その気持ちはよく理解できます。だれしも自分や身近な人が苦しんでいるのを見て、平気ではいられません。なんとかしてやりたいけれど、自分ではどうにもできない。そんな時、神仏にすがろうとするのでしょう。
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、飢饉や疫病の流行で人々が苦しんでいるのを見て、『浄土三部経』という長いお経を千回読むこと(千部読誦)を思い立ち、始められました。しかし、それは間違いだと思い直され、4、5日で中止されたといいます。なぜ親鸞聖人は途中でお経を読むことをやめられたのでしょうか。それは私たちの祈りや願いが、自分中心の欲望を満たすための祈りになっていくこと、また、そのことが他者をかえりみないどころか、他者に苦しみを与えることになってしまうと気付かれたからです。
「縁切り神社」に実際に次のような絵馬があります。「○○さんと△△さんが別れて、○○さんが私の方を振り向いてくれますように」「上司の○○さんが失敗してクビになりますように」「俺の価値に気付かないやつは全員死ね、死んでしまえ」です。自分中心の願いと他者の願いがぶつかったとき、それは争いを引き起こします。その最大のものが戦争です。
日本のお寺と神社は神仏習合で、その形態や教えまでもが同じものととらえられがちですが、本来の仏教の教えは、「全てのものは「縁」でつながっている」と説きます。そこから、自己の存在(いのち)が他者と共にあることに気づき、自己中心的な生き方ではなく、他者を生かす生き方を与えられる教えです。だから、本当の祈りは、他者の苦しみやいたみに共感することや、世の中の平和のためのものでなくてはならないと思います。
大晦日の「除夜会」に鳴る「除夜の鐘」は煩悩の数(108回)だけ鳴らされます。つまり、1年間の自分の欲望を振り返り、想いを新たに新しい年を迎えようとする行事です。その意味を考えて臨みたいものです。
(文責 宗教科)