2024年2月

まどいの眼には見えねども

 ほとけはつねに照らします

親鸞聖人

 昭和時代、佐賀県に保利茂というお念仏を喜ばれる衆議院議長までされた政治家がいました。保利茂さんが常々に悦ばれていた「正信偈」の一節があります。

煩悩障眼雖(ぼんのうしょうげんすい)()(けん) 大悲無倦(だいひむけん)(じょう)(しょう)()」(まどいの眼には見えねども ほとけはつねに照らします)という「正信偈」の一節です。この意味は、「欲望・いかり・そねみなどという煩悩が私の目をさえぎって、真実を見ることができない。しかし、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださる。」ということです。

 保利茂さんは、「百術は一誠に如かず」を政治信条とされ、同時に“政治家である前に人間でありたい。”と願い、人間の生き方としても誠実をモットーとされました。ところが、ある時そこにも思い上がりがあると気付き、大慈悲で世の中を照らしている仏さまの「大悲無倦」におそれかしこまれたのでした。そこに人間としてまず謙虚であること、またしばしば権力の座にあった政治家として自分に対する慎み、他人に対する思いやりの気持ちが大切であることを痛感されたのでした。政界において〔策士〕と恐れられるほど卓越した政治手腕を持ちながら、なお仏心を自己の基盤とされた所以であります。保利茂さんは死の間際に「長くて険しい道だった。目的地に近づいてきたようです。この病気になってから、かねて聞いていた通りのことが、私の身辺に起こってきました。それは、私が持っていたものが次々と自分から離れていくことです。まず体力がなくなりました。次には、肩書と地位がなくなります。それにつれて人間関係が失われます。」と語られたそうです。

 保利茂さんが仏法に触れられたのはお寺参りがご縁です。そして、目が見えなくなったおじいさんの存在。このおじいさん、朝夕のお勤めとお寺参りだけが唯一の楽しみでした。お寺でお説教があるとき、その祖父の手を引いていくのが幼い保利茂さんの役目でした。祖父が、お念仏を称えながらの行き帰り。ジーッと本堂でご法話を聴く少年。この環境が保利茂さんの基礎基盤を創ったと思われます。晩年に言われた言葉も有り難いです。「目の見えない祖父を連れて行っていたと思っていましたが…、連れて行かれていたのです。おじいさんのお陰で仏縁に遇わせて頂いていたのでした。七十七年間の心の底に大きな影響を与えたのは、仏さまの存在の意識でした。」とおっしゃっています。

 私達はともすると自分の身を自分自身の力だけで支えているように思いがちです。しかし本当はどれだけ多くのはたらきが私を支えてくださっているか。大地に支えられ、水に支えられ、太陽に支えられ……数え上げればきりがありません。そんなはたらきが目の前にあることにさえ気づかず当たり前と思っている私です。ある意味ではそれが煩悩に眼がさえぎられている私の姿なのかもしれません。そんな私であるから多くの苦悩を抱えていくことになるのかとも思います。そんな私に本当の安心を与えるため照らし続けてくださっている阿弥陀さまのはたらきを表してくださっている『まどいの眼には見えねども ほとけはつねに照らします』の言葉です。

文責:宗教科