だって、
助けてくれたら
うれしいやん
大阪の釜ヶ崎で出遇った小学2年生の言葉
今から5年ほど前に、
大阪の釜ヶ崎で出遇った小学2年生の言葉。
その日は寒い冬の日でした。大阪の釜ヶ崎で、野宿をされている方々におにぎりを配る夜回りに参加しました。元気モリモリでやんちゃな行動や言動をしていたその子と友達になりたくて、「なんで夜回りに参加してんの?」って話しかけてみました。そうすると、冒頭のような屈託のない大阪弁が返ってきました。私はその言葉にハッとさせられたのと同時に、自分がとても恥ずかしくなりました。なぜなら、私は「助ける」側から物事を考えたことはあっても、「助けられる」側から物事を考えたことは、それまで一度もなかったからです。無意識に「助けてあげる」といった上から目線の傲慢な態度に陥っていたのではないか……と気付かされました。
しかしよくよく考えてみると、今は「助ける」だけでなく、自分自身が「助けられる」ことにも思いを致す必要があるのではないでしょうか。低福祉や自己責任をベースとする今日の社会のことを思えば、なおさらのように思います。その子はまさに、おにぎりを配られる側、「助けられる」側に立って、「だって、助けられたらうれしいやん」と等身大の言葉で話してくれました。自他ともに〝弱さ〟を認め合い、〝助け、助けられる社会〟。こうした小学生の純朴な言葉の延長線上に、「助けて」と言い合えるやさしい社会が育まれていくのではないでしょうか。私もつらい時や困った時には、「助けて」と素直に言える自分でありたいと思いました。
「聖人」と呼ばれる親鸞その人は、世間一般でいうような偉い人や立派な人ではありません。よくよく親鸞の生き方を見つめてみると、そこには自他への〝弱さ〟や〝愚かさ〟への眼差しがあります。書き残した書物や手紙をひも解いてみると、親鸞も多くの人びとから「助けられる」存在であったことがわかります。
(文責 宗教科)